【怪事件・ミステリー】バビロンの空中庭園|なぜ「世界の七不思議」で唯一、場所が分からないのか──18年の文献研究が示した意外な答え
古代世界の七不思議のひとつ、バビロンの空中庭園。広範囲の発掘調査にもかかわらず、バビロンではその存在を示す物証が一度も見つかっていない。オックスフォード大学の研究者は、庭園は実はバビロンではなくニネヴェにあったとする学説を、18年の文献研究の末に提示している。
古代世界の七不思議に数えられる建造物の中で、ただひとつ、その所在地が今も確定していないものがある。「バビロンの空中庭園」である。広範囲にわたる考古学的発掘が行われてきたにもかかわらず、バビロンではその存在を示す物証が一度も見つかっていない。この空白を埋めるように、オックスフォード大学の研究者が18年の文献研究の末に提示したのは、「庭園はそもそもバビロンにはなかった」という、意外な結論だった。
バビロンの空中庭園とは
バビロンの空中庭園は、古代ギリシャ・ローマの文献に伝えられる、階段状に積み重なった壮麗な庭園である。伝承では、新バビロニア王国の王ネブカドネザル2世(在位紀元前605年〜前562年ごろ)が、故郷メディアの緑豊かな山々を懐かしむ妃アミュティスのために築いたとされる。乾燥した平原の中に人工的に築かれた緑の楽園として、古代世界の七不思議のひとつに数えられてきた。
しかし、同時代のバビロニアの文献にはこの庭園への言及が一切なく、バビロンでの考古学的な発掘調査でも、その存在を裏付ける決定的な証拠は見つかっていない。七不思議の中で、所在地が確定していないのはこの空中庭園だけである。
時代背景/舞台
紀元前6世紀のバビロンは、新バビロニア王国の首都として繁栄を極めていた。一方、それに先立つ紀元前7世紀には、メソポタミア北部のアッシリア帝国が、首都ニネヴェを中心に強大な勢力を誇っていた。バビロンとニネヴェは、同じメソポタミア文明圏に属しながらも、異なる王朝・異なる時代の都市である。
古代ギリシャの著述家たちは、メソポタミアの歴史や地理について、必ずしも正確な区別をしていたわけではなく、アッシリアとバビロニアの歴史が混同されて伝えられることも少なくなかった。この時代背景が、後の空中庭園をめぐる学説の混乱の一因になっていると考えられている。
発掘調査と学説の変遷
- 19世紀末〜20世紀初頭:ドイツの考古学者ロベルト・コルデウェイがバビロン遺跡を発掘。南宮殿の北東部で、半地下式のアーチ状構造物を発見し、これが空中庭園の跡だと確信する。
- その後の再評価:コルデウェイが発見した構造物は、現在では庭園ではなく倉庫だったと考えられている。
- 1994年以降:オックスフォード大学のアッシリア学者ステファニー・ダリーが、バビロニア・アッシリアの楔形文字文献や、後世のギリシャ・ローマの記述を18年にわたり再検証。
- ダリーの結論:ネブカドネザル2世の碑文には庭園への言及が一切ない一方、アッシリア王センナケリブ(在位紀元前704年〜前681年ごろ)の碑文には、ニネヴェに築いた壮麗な庭園と、総延長80kmにも及ぶ運河・ダム・水路からなる給水システムについての記述が見つかる。
- ニネヴェの浮き彫り:センナケリブの孫アッシュールバニパルの時代(紀元前7世紀)に作られたとされる浮き彫りに、豊かな水を引いた緑豊かな庭園が描かれており、これが空中庭園そのものではないかとする見方も出ている。
通常の説明・ニネヴェ説という有力な代替案
超常的な要素のない話としては、ダリー博士が提示した「ニネヴェ説」が、現時点でもっとも具体的な物証に基づく説明である。ネブカドネザル2世は自らの数々の事業について詳細な碑文を数多く残しているにもかかわらず、そのどれひとつとして庭園や大規模な土木事業に言及していない。この「記録の不在」自体が、伝承とは異なる場所に庭園があったことを示唆する重要な手がかりとされている。
一方、センナケリブの碑文には、庭園とそれを支える給水システムについての具体的な記述が残されており、この給水システムの遺構も実際にニネヴェで発掘されている。ダリー博士は、後世の人々が、センナケリブの壮麗な庭園を、より有名なネブカドネザル2世のバビロンのものと混同してしまったのではないかと推測している。
諸説と評価
- ネブカドネザル2世がバビロンに築いたという伝承通りの説:もっとも広く知られた伝承だが、同時代のバビロニア文献にも考古学的証拠にも裏付けがない(評価:×=物証を欠く)
- センナケリブがニネヴェに築いたという説(ダリー説):センナケリブ自身の碑文と給水システムの遺構という具体的な物証に裏付けられている(評価:○=物証との整合性が高い)
- バビロンのどこかに未発見のまま埋もれているという説:シカゴ大学のギブソン教授らが指摘する説で、ユーフラテス川の流路変化により、証拠が発掘困難な場所に埋もれている可能性を示唆する(評価:△=可能性は残るが未検証)
- 完全な文学的創作だったという説:後世のギリシャ・ローマの著述家による、神話・伝説を交えた誇張表現だったとする見方(評価:△=一部の学者が支持するが確定的ではない)
残る謎
ダリー博士のニネヴェ説は、現時点でもっとも説得力のある学説とされているが、これによってすべての謎が解けたわけではない。バビロンのユーフラテス川西岸部分は、当時の川がすでに現在とは異なる場所を流れていたこともあり、ほとんど調査が及んでいない。この未調査の領域に、空中庭園の痕跡が埋もれている可能性は、完全には否定されていない。また、ヘロドトスのように実際にバビロンを訪れたとされる著述家が、なぜ空中庭園に一切言及していないのかという疑問も、明確な答えが出ていない。
オカルト・陰謀論をどう見るか
空中庭園の「所在地不明」という謎は、時に「失われた超技術による建造物」といった空想的な言説と結びつけて語られることがある。しかし、ダリー博士の研究が示すように、この謎の核心にあるのは超常的な現象ではなく、古代の歴史記録がどのように伝承され、時に混同され、誤って伝えられていったかという、地道な文献学・考古学の問題である。
Occultpediaとしては、この謎の本当の面白さは、「失われた技術」という空想よりも、2700年の時を経た楔形文字の碑文を丹念に読み解くことで、これまで信じられてきた「常識」に大胆に異を唱えたダリー博士の研究プロセスそのものにあると考える。
正体とは|信憑性Bの理由
- 想定される通常の説明:センナケリブがニネヴェに築いた庭園が、後世に有名なネブカドネザル2世のバビロンのものと混同されて伝わったとする説明が、現時点でもっとも具体的な物証に裏付けられている。
- 説明力の評価:ネブカドネザル2世の碑文に庭園への言及が一切ない一方、センナケリブの碑文には庭園と給水システムについての具体的な記述があり、この給水システムの遺構も実際に発掘されている。
- 盛られた要素と事実の切り分け:コルデウェイがかつて空中庭園の跡だと確信した構造物は、現在では倉庫だったと考えられており、初期の「発見」報告は訂正されている。「失われた超技術」といった主張は、実際の文献学的な研究成果とは無関係である。
- 独立記録の質:ステファニー・ダリーによる18年にわたる楔形文字文献の再検証、ニネヴェで発掘された給水システムの遺構、複数のアッシリア学・考古学の専門家による議論など、複数の独立した学術的情報源が経緯に関わっているが、結論については専門家の間でも意見が分かれている。
- ランク確定:バビロンでは物証が一切見つかっておらず、ニネヴェ説は具体的な物証に裏付けられた有力な代替案だが、専門家の間で広く合意されているわけではなく、バビロンでの発見の可能性を主張する研究者もいる。七不思議の中で唯一所在地が確定していない、決着のついていないフーダニット型の事件であるため、信憑性Bと判定する。
まとめ
バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議の中で唯一、その所在地が確定していない建造物である。広範囲の発掘調査にもかかわらずバビロンでは物証が見つからない一方、オックスフォード大学のステファニー・ダリー博士は、18年にわたる文献研究の末、庭園は実際にはアッシリア王センナケリブがニネヴェに築いたものであり、後世に混同されて伝えられたとする学説を提示している。この説は具体的な物証に裏付けられた有力な仮説だが、バビロンでの発見の可能性を完全に否定する決定打もまだない。2700年前の記録の中に埋もれた真実は、今もなお掘り起こされ続けている。
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よくある質問
Q. バビロンの空中庭園は本当に実在したの?
分かっていない。バビロンではその存在を示す考古学的証拠が一切見つかっていないが、同様の庭園がアッシリアの首都ニネヴェに実在したことを示す文献・遺構は見つかっている。
Q. 「ニネヴェ説」とはどういう説?
オックスフォード大学の研究者ステファニー・ダリーが提唱する説で、空中庭園は実際にはバビロンの王ネブカドネザル2世ではなく、アッシリア王センナケリブがニネヴェに築いたものであり、後世に混同されて「バビロンの」空中庭園として伝えられたとする学説である。
Q. なぜバビロンでは見つからないの?
ユーフラテス川がネブカドネザル2世の時代とは異なる場所を流れていたため、証拠が埋もれている可能性のある西岸部分は、現在ほとんど調査が及んでいない。
Q. なぜ信憑性がBなのか?
バビロンでは物証が一切見つかっておらず、ニネヴェ説は具体的な物証に裏付けられた有力な代替案だが、専門家の間で広く合意されているわけではなく、決着のついていないフーダニット型の事件であるため。